皆さんは子ども時代、よく怒られるタイプの人でしたか?またご自身の子育ては怒ることが多いですか?褒めることが多いですか?
よく部活動などで「怒られキャラ」っていましたよね。褒めると調子にのるから、あまり褒めずに怒ることで成長を促していく、こんなところが狙いでしょうか。
そもそも大人でも子どもでも褒められたら調子にのるものです。
子どもの自信につながるのは、「自分は成功した」という実感です。
ですから親は、上から目線で子どもを褒めるよりも、自分の力でうまくいったという成功体験を持たせることが大切なのです。
精神科医の和田秀樹氏が著書『アドラー流「自分から勉強する子」の親の言葉』(大和書房)で解説してみたいと思います。
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なぜ子どもを褒めてはいけないのか
アドラー心理学では、親と子は対等な関係であることが望ましいとされます。子どもを褒めるのは好ましい行動ではない、とアドラーは言いました。
褒めるという行為には弊害があります。「褒める/褒められる」の関係が上下関係に結びついてしまう問題です。
たとえば、スポーツが大好きで得意にしている子がいたとしましょう。
その子がスポーツを頑張ったときには、親がまったく評価しなかったのに、少しだけ勉強したときに大喜びして褒めたならば、どうなるでしょうか。
子どもは親の顔色をうかがうようになり、「親が喜ぶから仕方なく勉強をする」という意識を持つようになるでしょう。
これでは短期的に学力が伸びたとしても、いずれ頭打ちになります。勉強をするための目標を間違えているからです。
アドラーは、他人の評価を気にするのではなく、自分でやりたいことをやって成功するのが一番の理想であると考えていました。
ですから、親が子どもに勉強をしてほしいと思うなら、「親のために勉強を強いる」のではなくて、「自分のために勉強をする」という方向に導いてあげる必要があるのです。
子育て本の中には、「結果が出なくても、途中のプロセスを褒めることが重要」と解説しているものがあります。
これは一見すると愛情のある働きかけのようにも見えますが、実は子どもの活力を奪う行為です。
結果も出ていないのに褒めるというのも、明らかに親が上から目線になっています。
「今回はうまくいかなかったけど、頑張ったじゃない」
「結果は残念だけど、よくやった、すごいね」
などと言われると、子どもはバカにされたような気分になるかもしれません。
そして、自信を持ちにくくなります。「成功した」という確信のもとに、深く喜ぶことができないからです。
アドラーは、あくまでも成功体験を得ることで喜びを感じる必要がある、と言っています。
結果が出ていないのに褒めたところで、子どもは萎縮するだけです。
子どもの自信につながるのは、「自分は成功した」という実感です。
親は、上から目線で子どもを褒めるよりも、自分の力でうまくいったという成功体験を持たせることが大切なのです。
「勉強ができる」と「性格がよい」は両立する
“人に勝ちたい”という欲求を持ち、それを満たしていくことが大切――というと、ただ競争に勝てばいいとする利己的な性格の子に育ってしまうのではないかという心配の声が聞こえてきそうですね。
世の中には、「勉強やスポーツの能力に優れている人間は性格が悪い。なぜなら、競争至上主義で、負けている人に冷たいからだ」と考える人がいます。
一方で、「競争に負けている人はひがみっぽくて性格が悪い。むしろ競争に勝利している人のほうが性格がよい」と考える人もいます。
アドラーの考えは、どちらかと言えば後者でした。
彼は、“勉強ができる”と“性格がよい”は両立するものとしてとらえていました。
人は基本的に1人では生きていくことができない、みんなで一緒に幸せになりたいという意識を持っていると考えていたからです。
アドラーは、この意識のことを「共同体感覚」と呼びました。
ほとんどの心理学は、人間の能力を開発したり、自信を持たせたり、人間関係をよくすることを目指しています。
あるいは心の病にならないようにする、心の病から回復することを意識しています。
これに対してアドラー心理学では、人間性の向上や社会貢献を目的にしていました。
共同体感覚を持って社会に適応し、社会貢献する人間モデルを追求していたのです。
「勉強やスポーツで勝たせすぎると、性格が悪くなる」
などと心配する必要はありません。
「性格もよいし、勉強もできる」
「性格もよいし、スポーツもできる」
ぜひ、そんな子どもを育てるという意識で取り組んでいただきたいと思うのです。
社会の厳しさを教えることが大切
現在の日本では、格差社会の進行はとどまるところを知らず、貧富の差はますます拡大しつつありますよね。
そのなかで勝者となった勝ち組は、どこまでも強欲さを発揮し、弱者に対する配慮やいたわりなど、みじんも示そうとはしません。
世間の風潮やメディアを見ても、強者に正面切って異を唱える声は弱々しく、むしろ弱者を叩く声のほうが大きいのが実情です。
たとえば、生活保護の受給者に対するバッシング一つをとってもそうです。
百数十万円の生活保護費の詐取に対しては苛烈きわまりない叩き方をするのに、何億円もの税金を回避する富裕層に対しては、怒りの矛先を向けるどころか、むしろ追従してしまうのはどうしてなのでしょうか。
食うや食わずの生活のなかで追い詰められて公金に手を出してしまった人には厳しい半面、お金があるのに納税しない人を「賢い」と評価するのはなぜでしょうか。
日本では公務員に対するまなざしにも厳しいものがあります。「公務員は血税からのうのうと高い給料をむさぼっている」という批判を頻繁に耳にします。
しかし、地方に行けば、売上の100%が公共事業費(つまり税金)からまかなわれている会社はざらにあります。
これを、どういうわけか血税から給料をまかなっているとは言いません。
公務員の給料が上がれば叩かれるのに、こうした公共事業頼みの民間企業が潤い、トップがどれだけ贅沢な暮らしをしても叩かれないのはどうしてでしょうか。
私は、子どもに対して、こういう世の中の現状をリアルに教えるべきだと思っています。
「一部の勝ち組は、とんでもなく残酷なことをしているよ」
「世の中は本当に厳しいよ」
「勉強しないと、どこまでも勝ち組に奪われる一方だよ」
私自身、息子たちにこういったことを伝えて育てようとこの本を読んで強く思いました。思えば、これは私の母親が口にしていたのと同じ言葉です。
私の母親は、勉強をしないからといって私たち兄弟を叱ったことはありません。そうではなくて、「勉強しないと、どうなるか」を何度も繰り返し語っていました。
「勉強しないと食べていけないよ」
「食べられなくなったら本当につらいよ」
「勉強は親の見栄のためにするものではなくて、自分が生きていくためにするものなんだよ」
そうやって、勉強の競争に勝つための動機づけを行っていたのです。
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