日本の学校における部活動は「競技力向上」より「人格形成」を重んじで活動していることがほとんどです。
しかし「スポーツは人格形成に役立つ」は、本当なのでしょうか。
名桜大学の大峰光博准教授は「部活に入る大学生の半数が相手への侮辱やブーイングを許容するという研究結果がある。
スポーツは社会性を涵養するような上等なものではない」といいます――。
言われてみれば…と思った方、いらっしゃるのではないでしょうか。
部活動は強制加入されるものではない
2022年11月、中学校の運動部活動に入部している生徒の割合が、37の道県で過去最低になったとするNHKの調査が発表されました。全国の平均は59.6%であり、最も低かったのは50.7%の奈良県、次いで51%の長野県でした。部活動への強制加入を見直した学校が増えていることが影響していると考えられますが、そもそも学習指導要領で「生徒の自主的、自発的な参加により行われる」と明記されている部活動は、強制加入されるものであってはならないのです。
現在、公立中学校において部活動の地域移行が進められており、部活動の意義が問われています。
日本の中学校教員が部活動に従事する時間は、他の国々の中学校教員と比べて突出して長いことが明らかになっています。この点から教育社会学者である舞田敏彦は、「部活動が生徒の人間形成に寄与する、教員も関わって当然」という考えは海外では非常識であると述べています。私も監督業をしていますが、基本ボランティアです。それらによる対価は得られません。
そんな過酷な「ブラック部活動の監督」を、なぜやっているのかと聞かれると「・・・」って感じです。
スポーツ基本法では、運動部活動で行われるスポーツは他者を尊重し、公正さを尊ぶ態度を培うと記されていますが、本当にそうなのでしょうか。運動部活動に属さない生徒やスポーツに取り組まない生徒は、そうである生徒に比べ、他者を尊重し、公正さを尊ぶ態度を養う機会を失っているのでしょうか。
何をもって人格形成や人間形成がなされたとするかは、国や地域によって大きく異なるだけでなく、同じ共同体の中においても見解が分かれるでしょう。ただ、人格形成や人間形成という概念に、他者を尊重し、公正さを尊ぶという社会性が包含される点については合意が得られると思います。
こちらでは、運動部活動が社会性(他者の尊重、公正さを尊ぶ態度)を養う上で有効なツールであるのかについて、論じていきます。
学生はどこまでスポーツのルールを順守するか
まず、Bradford Strand(米ノースダコタ州立大学)らが2010年と2018年に発表した、アメリカの大学生アスリートと高校生アスリートを対象にした調査結果を紹介します。ゲームズマンシップ(gamesmanship)という、ルールの範囲内、もしくはルールを破って実践される、試合で勝利するための行動に関する調査です。スポーツと教育を論じる上で示唆に富んだ内容です。
調査の対象となったのは、アメリカの4つの大学に所属する455人(男性283人、女性172人)と、16の公立高校に所属する273人(男性105人、女性142人、ジェンダーを明確にできなかった26人)です。25の質問項目があり、怪我をしている箇所への攻撃、報復死球、威嚇・脅し、得点の積み上げ、審判へのだまし、トラッシュトーク(言葉による攻撃)、派手なパフォーマンス、誤審の黙認、非公開情報の活用などについてどう思うかを問うものとなっています。
トラッシュトーク(例えば、得点者が相手ディフェンダーに「お前はへぼだ」などと言う)について尋ねた項目では、大学生アスリートの半分以上が、高校生アスリートでも約5人に1人が許容するという結果になっています。また、ブーイングややじであれば許容されることにイエスと回答した大学生は約3人に1人という結果になりました。
これほどまでの学生・生徒がトラッシュトークややじを許容する背景には、彼らが目標とするプロスポーツ選手たちがトラッシュトークを試合で日常的に用いていることが影響していると考えられます。
ノースカロライナ大学のスターであった、バスケットボールの神様であるマイケル・ジョーダンは、激しい闘争心から有名なトラッシュトーカーでした。また、世界中で大きく報じられた2006年サッカーワールドカップ決勝でのジダンによる頭突きは、対戦チームの選手との間でのトラッシュトークが引き鉄となりました。
ベンチにいるプレイヤーが対戦チームをあざけり、やじることはアメリカのみならず日本においても行われています。運動部活動だけでなく、少年野球などにおいても行われてきたことは多くの人が知るところです。よく応援団が相手のミスに対して大声で喜ぶのも、その1つですよね。
バスケットボールやサッカーのみならず、どのようなスポーツにおいても通常は、選手が対戦相手を侮辱・攻撃する発言は競技規則で禁止されています。明確にルールで禁止されているにもかかわらず、他者を傷付ける行為を許容する態度は、決して社会性が養われているとは言い難いでしょう。
続けて、審判の誤審に関する回答を紹介しましょう。
大学生アスリートと高校生アスリートの受け入れる割合に開きがありますが、審判による誤審を黙認することを、大学生は約3人に2人が、高校生でも約半分が受け入れるという驚きの結果になっています。
これほどまでに高い数値となったことについて、Strandらは、誤審がアスリートたち自身の責任というよりむしろ、ルールを執行する審判の責任であると考える傾向があるためであると考察しています。審判のジャッジを尊重していると言えば聞こえは良いですが、自身にとって不利になる判定であれば当然、審判に対する抗議は行われます。誤審の黙認は、先ほどのトラッシュトークのように何らかのルールに違反しているわけではありませんが、公正さを尊ぶ態度が養われているとは言えないでしょう。
スポーツと日常生活で求められる倫理観は異なる
日本の大学生・高校生アスリートに同様のアンケートは実施されていませんが、運動部活動に参加する生徒は反社会的傾向が高く、学校での逸脱傾向が高いという研究も存在します。ここでいう反社会的傾向とは、先生や友達に対するいじめや、授業中に大声を出して騒ぐ行為などを指します。
哲学者である川谷茂樹は、スポーツは日常の倫理との緊張関係にあり、ほとんど不可避的に倫理的問題を引き起こす、危険な代物であると指摘しました。スポーツは日常生活で禁止される行為が許容される、独特のスポーツ倫理(対戦相手の弱点を攻める、対戦相手の嫌がることをする、殴る・蹴る・絞める・体当たりといった身体的攻撃をする)が存在するためです。
日常生活で殴る等の行為によって他人に怪我を負わせれば、暴行罪や傷害罪が適用されます。しかしながら、ボクシングやラグビーでは、他人を殴ったり体当たりをしても、暴行罪や傷害罪には問われません。なぜなら、刑法第35条には「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」とあり、スポーツは「正当な業務による行為」とされるためです。つまり、日常生活で禁止されている殴る・体当たりという行為は、スポーツの世界で例外的に許容されていると言えます。
スポーツは「えげつない行為」が求められる
スポーツの本質は、誰(どのチーム)が優越しているかを決定する試みであり、勝利の追求が求められます。対戦相手(チーム)が敗北することによって伴う痛みや苦しみをおもんぱかっていては勝てません。
川谷は、アスリートとして純粋に勝利を追求するためには、普通の人間としては「えげつない」行為を遂行する能力・技能が必要になると主張しました。同感です。Strandらによる調査は、川谷の主張を補強する結果になっています。
スポーツで飯を食べ、スポーツがアイデンティティーの中心に位置するトップアスリートたちにとっては、闘いの中での「えげつない」行為は日常茶飯事です。元サッカー日本代表の本田圭佑は先日、W杯開幕直後に「見えないところで汚いことをすることもサッカーの一部やった」とツイッターで述べました。日々の練習においても、健康の維持・増進という日常の倫理とかけ離れた「えげつない」鍛錬が続けられています。そうでなければ、トップのレベルで生き残っていけないからです。
そういう意味では、部活動も含め、スポーツへの過度の傾注は、日常生活では許容されない「えげつなさ」を自身の中に取り込んでしまうとも言えるのではないでしょうか。
未成年飲酒や喫煙といった問題は部活動内で繰り返されている
運動部活動が社会性において必ずプラスに働くのであれば、中学生の4割が運動部活動に加入していない状況は極めて由々しき事態です。運動部活動に加入していない学生の社会性が、危機的な状況に陥っている可能性も出てきます。
しかしながら、運動部活動を行っていても社会性に乏しい学生もいる一方で、サークルに加入したり、帰宅部という運動部活動に加入していない学生が社会性に優れているケースもあります。それは、飲酒、喫煙、薬物使用、いじめ、暴力といった事件が運動部活動に加入している学生によって繰り返され、また、運動部活動に長期にわたり加入していたトップアスリートが他者を尊重せず、公正さを尊ぶ態度が培われていないスキャンダル事例からも明らかです。
そもそも、生徒の自主的、自発的な参加により行われる運動部活動は、生徒がどのような目的で参加しようとも自由です。私はこれまで運動部活動を「憧れの選手のようにプレーしたい」「周囲の人たちに認められたい」「達成感を味わいたい」「勝ちたい」といった動機で参加してきました。自身の社会性を高めることを目的に参加してはいませんでした。周囲の部員も同様でした。
そもそもスポーツの語源はラテン語の“deportare”であり、気晴らしを意味します。日々の労働や日常の規範からの逸脱が、気晴らしになり得ます。スポーツそのものが労働や日常の規範の連続であるならば、気晴らしにはなりません。気晴らしは日常の規範にとって危うさを持っています。
私は「このままではスポーツが駄目になってしまう!」「スポーツの危機だ!」と叫びたいわけではありません。「えげつない」行為が要求されるスポーツは、それほど上等なものでありません。一方で、日常の倫理とは異なる倫理を求められることが魅力の一つであるとも考えています。そのようなスポーツを用いる運動部活動において、日常の倫理を重んじる社会性が育まれないことは、なんら不思議なことではありません。
指導者が運動部活動において部員の社会性を養うことを目標とするのであれば、以上のようなスポーツの側面を認識する必要があり、ひたすらに高いレベルを目指すことやスポーツをただ行わせるだけでは、その目標は到底達成されない点を肝に銘じておく必要があります。
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